うちの嫁には趣味がない。
これが我が家の問題だ。
夫婦が平和な日常を送るために、彼女にも「趣味」を持ってもらいたい。
出会いや結婚までのプロセスが、いくら感動的でユニークなものであったとしてもそれは結婚後の平和な生活を保証するものではない。
生まれも育ちも違う二人が生活を共にすれば、見たくないことや聞きたくないことも受け入れていかねばならず、意見の違いやちょっとした気分のムラでけんかをするのはあたり前だ。
そしてその頻度も増してくる。
しかし、そんな面白くない時でも、お互いに趣味に割く時間があればどうだろう。
きっと随分違ったものになるんじゃないだろうか。
楽しい時間は、荒ぶった感情を鎮めることができるだろうし、調子が良ければ、ちょっと言い過ぎたかもねと反省することだってあると思う。
あまつさえ二人が同じ分野に興味を持っていれば、仲直りのプロセスも、それがない二人よりはよほど穏やかで速いはずだ。
事実、ガンプラ製作中の私は、修行僧のように落ち着いた精神状態になるし、「あの言い方は少しひどかったから明日は甘いものでも買って帰るかな」などと殊勝な気持ちにもなる。
そういうことはほんとうにある。
しかし、その荒ぶった心を静める術が嫁にはない。
喧嘩が長期化する原因の一つだ。
これはよくない。
20年も一緒にいれば、夫婦間のいざこざも、たしかにこれをうまく収める術を身につけてはいる。
しかし、事態の収拾に動き出すのはいつも私の方だ。
これを毎回やるのが非常にしんどくなってきている。
けんかをしている最中というのは、家庭内のいろいろなことが停滞してしまい極めて非生産的だ。
彼女が握っているライフラインが全般的にストップしてしまうのが痛い。
中でも食事の供給がなくなるというのは非常に辛い。
空腹に耐えながら戦を継続することは難しい。
(兵站から締め上げてくるところに戦のセンスを感じてしまう。やるな。)
ならばいっそ、自分から媚びていった方が早く事態を収拾できるとのではないかという結論になり、負のスパイラルに陥っていく。
そんなとき、やりたくはないが、先に謝ることを心掛けてはいる。
本来下げたくない頭を下げにいくのだから、これは強烈なストレスだ。
しかも、下げたくない感というのは笑顔の隙間から漏れやすい。
相手は怒りを再燃させるきっかけを待っているから、うかつにてへへッなどとと近づいていくのは非常に危険だ。
できるだけ厳かに、真面目な顔で、かつ、本心を悟られぬようにそっと近づくことにしているが、最近は、嫁もこ慣れてきて「ごめんね」だけでは解決しなくなってきている。
「ごめんね」よりも先に「どうせ、はやく(けんかを)終わらせたいんでしょ」などと言われてしまう始末。完全に見抜かれている。
そんな時は、反省の言葉を並べたてたり、申し訳ない感も持続させなければならない。
いつもと同じ言葉を繰り返すのはうすっぺらい感じが出てしまうから、彼女に「ほほぅ。」と思わせる謝罪の表現を探さなければならないし、先にごめんよといえば、自然と相手の愚痴や主張をひたすら聞くことになるから、穏やかな心を保ちながら相手の気持ちが回復するのを待つなどというのは至難の業だ。
成功した時など軽い達成感を覚えてしまう。
嫁の言い分を聞いている間、ちょうど良い相槌を打つなどという高度なテクニックもあみだした。
相槌は軽すぎても、大袈裟すぎても、嘘っぽさを醸し出してしまう。
しかもあくまで肯定することが前提だから、「でも」「しかし」「てゆうか」などという逆接の接続詞は間違っても使ってはならない。
これは確実に事態の悪化を招くから恐ろしい。
早く事態を収拾させようと思って、こちらから謝っているのに火に油を注ぐことになる。
これでは本末転倒。
俺はいったい何をやっているんだ…という残念なことになってしまうから、
仲直りというものは常に丸腰で爆弾を解除するような緊張感を強いられる。
強烈なストレスだ。
夫婦の関係というのはこうした絶え間ない努力の積み重ねで作り上げていくものかもしれない。
そういうものかもしれないが。
しかし、一方的な努力というのはいかんと思う。
最近はさすがにしんどくなってきている。
だから。
うちの嫁にも趣味を持ってもらうための働きかけを強めようと思う。
そうだ。
ガンプラでいこう。
嫁がガンプラに興味を持てば、平和な夫婦生活が維持できるはずだ!